2010年01月13日

あの日から

阪神淡路大震災
あの日から、自分の思いも、行動も変わりました。

同じ思いの人たちと、
かけがえのない絆を結ぶこともできました。

静岡に来てからも、不思議なご縁に導かれています。

あの日からのことは、昨年7つの記事にしました。
追記もしながら、もう一度ここに、まとめておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

≪あの日から≫


愛知県の海辺の小さな町、
幡豆という所に住んでいた。
私は、あの朝、五時半に出かける家族を見送り
部屋に戻った。そして椅子に座って
生後2ヵ月半の娘に母乳をあげていた。

その時、地面から不気味な低い地響きが・・・
と同時に家が、ミシッ、ミシ・・・と音を立てて揺れた。
『東海地震・・・?』 『大きい揺れが来る?』
すぐテレビをつけた。
けれど、震度などは、すぐに報道されなかった。

てっきり関東方面と思ったけれど、速報は
西の神戸を中心とした広い範囲の地震を伝え始めた。

『近畿地方で、地震?』 信じられなかった。
まだ薄暗く、テレビでは 倒れた電柱が一本だけ、
ライトに照らされた。『四人のケガ人が出た模様』
とテロップが出たきりだった。


何が起こったのか?

何ともいえぬ胸騒ぎが止められなかった。


夜が明けて、だんだん 明るくなった神戸を
ヘリコプターが中継した。
素人の目にも、大変なことが起っているとわかった。
が、報道は、断片的だった。
レポーターも叫ぶように 見えるものを伝えていた。
娘を抱いたまま、部屋の中を歩き回っていた。



政府の対応は、午後だいぶ経ってからだった。
「早くなんとかして!何やってるの?」
ゆっくりメモのやりとりをしているふうの
国会での画面に思わず叫んでいた。


何十万の人の暮らしが、そこにあったはずだ。
いろいろな思いの中で、
必死に生きていただろう人々が・・・
 
それが 阪神淡路大震災 だった。

ライフラインは寸断され ビルは壊れ、
高速道路の一部が 横倒しになっていた。
家屋はつぶれ、パジャマのまま、裸足のままの人たちが
呆然と立ち尽くしていた。
つぶれてしまった実家を前に、親の名を呼ぶ人。
燃える自宅を目の前にして、誰も助け出せず
肩を落とし、膝をつく人・・・

テレビには、血だらけの赤ちゃんを抱いて
治療できるところがないか・・・と
必死に聞きまわる若い母親も映った。
自分は、暖かい部屋で赤ちゃんを抱いている。

寝たきりの老人をやっとのことで運んできても
避難場所であるはずの体育館に入れない。
オムツも、タオルも、何もない。

介護をしていたころの自分jがよみがえる。
電動ベッドもシャワーもあって、
ヘルパーさんの力も借りて・・・。それでも
あんなに大変だったのに・・・と、胸が詰まった。

私は、画面に見入るだけだった。
   
  ※  【住家被害】 

     全壊・・・10万4906棟 18万6175世帯
  
     半壊・・・14万4274棟 27万4182世帯


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死者の数は、報道のたびにどんどん増えてゆく。
数十人から、数百人、数日で数千人になった。
「だから、・・・ だから言ったのに・・・・!」
涙が止まらなかった。
少し前に自分が大変だった時に、ぐっと飲み込んで
我慢してきたはずの涙まで、あふれ出した。

私は、ノート一冊出して、記録をし始めた。
どんなことがあったのか、どんな報道がされたのか
この子が大きくなったら、話してやらなくては・・・・

テレビに流れることを、箇条書きに・・・
何ページも何ページもノートに書いた。
けれど、追いつかなかった。つらい光景ばかり・・・

ペンを置き、『どうしよう!どうしよう!』と
娘を抱いたまま、おろおろするばかり、
涙が止まらなかった。



その一連の報道の中に、婚約者と母親を亡くし、
ショックで声も出なくなり、立つことも出来なくなった
若い女性がテレビに映った。

私は、とうとう大きな声を上げて泣いてしまった。
悲しかったことは、沢山あったけれど、
そう・・・これほどではなかった。

私の悩みなど、たいしたことは無かったのだ。
あんな小さなことの色々が、悩みだったなんて・・・
実は、幸せなことだったのだと、
そのとき 気づかされた。

私は、もう一度、ノートを開き
この若い女性を思いながら、ペンを走らせた。 
これだけは、ちゃんと残そう。
少しすれば、きっと忘れてしまう自分のため・・・
必ず、娘に伝えるために・・・・詩の形にした。

歌にしよう!そう!そうすれば、きっと忘れない。

  
長く眠れぬ夜が明けて 朝日の中に浮かぶのは

廃墟のビル見知らぬ町 握り締めた貴方の写真

あの日までは待ち合わせ 歩いた港語った未来
 
夜景の中で誓ってくれた
 
あなたは何処へいったのですか



涙があふれるはずなのに 悲しみあふれるはずなのに

祈ることさえ忘れている 一緒に選んだ白いドレス

これだけは私にと  渡してくれた真珠の指輪

優しく見つめていてくれた母

あなたは何処へいったのですか 




    ※  死者6434人、負傷者約4万4千人
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同じテントの父親らしき人が、
結婚式は、三月の予定だったと云っていた。
たぶん、友人も沢山招待していたのだろう。
みんな被災したに違いない。そして、そのまま、
神戸を離れるしかなかった人も多かっただろう。


幼いころから夢見てた その日を手紙で知らせたら

私も幸せ見つけると 祝ってくれた友達も

壊れた家で傷ついた 明るかった笑顔まで

遠い町へと旅立った 

あなたは何処へいったのですか



 沢山のボランティアが、神戸に入った。
 避難所になっている体育館やグランドには、
 炊き出しに長い列が・・・電話出来る所にも
 時々、子供たちの声が・・・。
 人々は、懸命に 立ち上がろうとしていた。


冷たい雨が、雪にかわる うつむいたままの私の肩に

見知らぬ人が そっと上着をかけて黙って去ってゆく

ふりむけば春を待つ 小さなつぼみ水仙の花

明日を信じて子供が走る 私も生きているのですね 
         
   私も生きているのですね 

      これから生きていくのですね



あの若い女性が、歩き出せる日が
来るように祈りを込めた。


曲をつけてくれる知人は、なかった。
それでも、歌にしておかなければ・・・という
そんな思いだけで、なんども歌いながら
・・・折れ線グラフのように線を書いて、
メロディは、完成させた。

震災から数週間後のことだった。

   
私の手作りのものを、いつも見てくれる友人がいた。
「今度は、歌を作ったの」 と 聞いてもらうと、
彼女は、涙ぐみながら
「これに伴奏つけてほしいな、そして必ず私に頂戴!
家族にも友達にも聞かせたいから…」 と云っってくれた。

私もそう出来たらいいと思った。 けれど、
私は、ちゃんと音符も書けないし、ピアノも弾けない。
誰かに助けてもらうしかなかった。

近くに音楽の先生が住んでみえることを思い出した。
奥様は、知っている方だったので、取り次いでもらった。

「歌を作ったのですが、音符にしていただけませんか?」
とお願いした。「そうですか、それは、いいことですね」
と、快く受けてくださった。すぐその部屋で
録音の用意をして下さって
「じゃあ、歌ってください!」と云われた。
私は、一番と四番を歌って帰ってきた。

後日、「忙しくて、メロディ譜だけで申し訳ない。
 伴奏もつくってあげたかったけれど…。」
   手書きの楽譜を渡された。深く感謝した。


友人にピアノの先生を紹介してもらった。
伴奏譜を作ってもらうためだ。

「弾く方なら、どんな難曲でもやってきましたが
アレンジは、初めての経験なので、
自信はないです。でも・・・ せっかく、そう・・・
私に言ってくださったのだからお引き受けします。」
と手書きのメロディ譜を受け取ってくださった。

後日、「一応出来ました。」と電話があった。


お邪魔すると、グランドピアノで弾いてくださった。
涙があふれた。有難うございます。
「こういうことは、初めての経験なので、
この楽譜にこだわらずに、弾いて下さる方が
良いよう変えてくださっていいですので・・・」
と云われた。 謙虚な言葉に深く感謝した。


いただいた楽譜は、
チャイコフスキーのものかというほどの
音符だった。私は、バイエルくらいの人でも
弾けるようにも出来たらいいと思った。

小三の次男に音楽の先生を紹介してもらって
楽譜をシンプルにしていただくようお願いした。
ちょうどお父様が、楽譜にするソフトを
手に入れたばかりということで、美しい楽譜に
なったものを渡された。
録音当日の伴奏も引き受けてもらった。
小さなスタジオで、何度も弾いてもらった。


歌は、最初は違う方にお願いしていた。
コーラスをしている友人の紹介の紹介で
ソプラノの方に、楽譜をお渡しした。

録音の日、歌っていただいたけれど
フォーク調のこの歌には、合わなかった。
その方が 「これは、やっぱり作った本人が歌うのが
いいと思うよ!私が赤ちゃん抱いててあげる」
と云われた。
ミキサーの方も、「歌ってみたら?」と云われ、
歌ってみることになった。 小さな声だったが
打ちひしがれた彼女を表現するのには、合っていたのか
そのまま、録音された。


後日、長男の中学の音楽の先生にもキーボードを

最後に祈りの鐘の音も入れていただいた。


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しかし、大震災の日から二ヵ月後の三月、
地下鉄サリン事件が起こり、メディァは、
一斉にそちらに集中し、移動してしまった。
もう大震災のニュースは、愛知では、時々にしか
流れなくなってしまった。あんなに大震災の支援は、
10年は、必要・・・と云っていたのに・・・


私の歌が、小さなスタジオで
一枚のCDとして完成したのは、その二週間後。
四月になっていた。

「今頃、地震の歌ァ?おそいよー!」という人もいた。

けれど 「やっと出来たんだね。これテープにしてね!
みんなに聞かせたい。ちゃんと買うから
10本作って!」と云ってくれる人があった。
「一本500円でいい?」と先にお金を渡された。
驚いたけれど、そのとき、単純な私は、
そんな風にして、すこしでもテープが売れたら、
神戸の人に送れるかもしれない・・・と思った。

でも、チャリティーなど、有名な人がやること。
経験がないし。恐れ多い。被災者でもない、
知らない素人の歌を誰かが買ってくれるわけもない。
方法も、全くわからなかった。それでも、
できることなら、どんな形でも支援をしたいと思った。

震災遺児の支援をしている所は、どこかにないか・・・
神戸市に電話で聞いた。3ヶ所の団体を
紹介してくれた。子供を置いて
逝かねばならなかった方たちは、
遠い所から願っているに違いない。そう思ったのだ。

私も、肉親の縁が薄い。
もし自分の住んでいる所にそんなことが起こったら・・・
そして、私が死んで、子供達だけが残ったら・・・
どうなるのか?

町の中で、一軒だけが火事で、というなら
周りの人が、手を差し伸べてくれるだろう。
親戚も力を貸してくれるだろう。
でも、町中が被災したのだ。
親を亡くした子供達は、
今、どんなに心細い思いをしているだろう?
遠くに住んでいる自分だけれど、えんぴつ一本でも、
ハンカチ一枚にでもなればいいと思った。

それからは、ひとつの形にしていった。

震災遺児は、573人、
そのうち両親とも亡くした震災孤児は、68人


今思えば、まだ、娘が生まれて
半年もたっていなかった頃だ。でも、だからこそ
家に居て、テレビも見られたし、
そう思い立つことも出来たのだ。

オムツを干しながらひとつ、掃除をしながらひとつ
食事を作りながらひとつ、スタジオで作ったCDから
小さなカセットテープにダビングしていった。

歌詞カードや趣旨説明、協力者の氏名などは、
近所の若いママに、ワープロで打ってもらって、
コンビニに行って、コピーをした。
あのころは、まだ、文章を打てない自分だった。

絵の上手な先生に水仙の絵を描いてもらい、
それを白黒コピーをして、色をつけて
ジャケットとした。そのころは、カラーコピーは
高価だったから。手作りのカセットを500円と決めて 
ひとりひとりに話し始めた。

最初に声をかけた人は、テープ代500円と
「がんばってね!これは、活動費!」といって
1000円余分に渡してくれた。

協力の輪は、少しずつ少しずつ広がった。
周りのみんなに声をかけてくれる人、
自分のお店においてくれる人・・・
沢山の人が、自分のできることを考えて参加してくれた。

バザーのときは、押入れの中の使ってないものを
出してくれる人、綺麗にラッピングしてくれる人、
畑の野菜を出してくれる人、手作りのケーキを焼いて,
バスケットに入れてきてくれる人、子守をしてくれる人
・・・ 色々な人が、参加してくれた。

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小さな一歩から、クチコミで広がった支援は
地域新聞から、中日新聞の愛知県内版に、
そのあと東海ラジオでも紹介された。

水仙の花の絵は、後に、写真を撮り
焼きまわししてジャケットとした。
≪95.1.17 何処へ ♪ ≫ のゴム印も作って
カセットテープのシールには、それを押した。
反対側には、カラオケを入れた。

遠くの町からもテープの注文の電話がかかってきた。
手紙や、FAXもいただいた。

がんばってください!と、メモだけで、
毎日、千円札一枚、匿名で送ってくださった方もいる。
それは、ひと月ほど続いた。千円札は、薄い茶封筒に
透けて見えていたけれど、差出人住所氏名もなく
阪神大震災義援金という文字は、大きく書いてあったから
当時の郵便局は、それを黙認してくれて
毎日配達してくれた。

プロも出演する足助のかじやさん主催の
チャリティコンサートにも
呼んでいただいた。みんなが、自分のかかわる
サークル、バザーや、フリーマーケットで、
多くの人に呼びかけてくれた。

発送の宛名書きをしてくれる人、シールを貼る人
晩御飯を作ってきてくれる人、子守の人、色々現れた。

名古屋を中心とした、
≪震災から学ぶネットワーク≫( 現・RSY )
にも登録し、沢山のボランティアの方達とつながった。

友人から友人へ、そのまた知人から知人へと広がり、
そのテープを手にしたある東京の女性がは、
NHKラジオに協力の呼びかけの手紙と
テープを送ってくれた。

NHKは、≪土曜サロン≫という
全国ネットのラジオ番組で、なんと20分間も、
私たちの取り組みを紹介してくれた。
広瀬久美子アナウンサーと
ゲストは、佐々木 功さんだった。

『小さな海辺に住む、乳飲み子を抱えた
 主婦を中心に支援の輪・・・』 と

放送直後から、注文の電話やFAXが入った。
ある社長さんから、従業員に聞かせたいからと
数十本注文があった。同じ部屋で手作業をしている
女性がラジオで聞いたから・・・と、ひとり一本づつ
と、電話を下さった。北海道や、沖縄からも 
電話は、十日間でおよそ三百本あった。

目の見えない方や、家族の介護をしている方
老夫婦 ・・・ 電話で多くの方に励まされた。


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伝統ある西尾合唱団が、合唱曲にしてくださった。
ピアノ伴奏のかたは、国際コンクールで
グランプリをとられた馬場勝代(まさよ)さんだった。

自分が、折れ線グラフで作ったメロディが
クラッシックの名曲のようにアレンジされ
演奏されていた。また混声合唱になったものを
聞かせていただいたときは、不思議に感じた。

その公演会場のロビーでも、
募金箱と置かせてくださり、テープの販売も許された。


遠く高知の市民合唱団でも、歌っていただいた。

一本づつのダビングは、半年で1500本を 越した。

収益金、バザーの売り上げ、託されたものなどを合わせ、
神戸のあしなが育英会(震災遺児口)に
その都度、振り込んだ。


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三年を待たずして、神戸には震災遺児のケア施設、
≪レインボー・ハウス≫が完成し、
そこを拠点とする活動が始まった。
3年目と10年目に訪問した。


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あれから、沢山の地震や災害があった。

数年後、東海豪雨で、愛知県の
西枇杷島、新川両町から子供たちの本が
水につかり、本の寄付を募ると連絡があったときは
震災後の活動のつながりで、
トラック一杯の絵本や児童書を、運ぶことができた。
本を集めてくれたのは、みんな若いママたちだった。

ジャンル別、対象年齢別に、みんなで分けて、縛った。
トラックを貸してくれたのは、近くの社長さん。
積んで、運転していってくれたのは、若いパパ。

被災者のバザーの手伝いも、娘と参加した。
5歳になっていた娘もスタッフの
ネーム代わりの黄色のガムテープに
マジックで、ちゃんと名前を書いてもらって、
ピンク色のTシャツに張ってもらった。列に並び
軽いものや小さいものを運ばせてもらった。

【防災の灯り 1.17】 を、愛知でもというときには、
都合のつくみんなで、水に浮かぶロウソクを
卵パックで千個以上作り、送りました。
近所の小学生たちも手伝ってくれた。

電話をすると、「今度は、何をすればいい?」
という友人が多くいた。会員名簿もなんにも、ない。
けれど、素晴らしいネットワークだったと思う。
私は、連絡係だけをしたに過ぎない。

でもある人が、「こういうときは、こうしたい!
こうでない(ねえ)と!と言い続ける人を
コーディネイターって云うんだよ!」と言ってくれた。
そうなのかな?と思った。

あの日から、小さな活動を継続し
阪神大震災から10年目に祈念コンサートを
やろうということになった。その頃には
活動の途中で知り合えた音楽の友人が、
その友人を総動員して、協力してくれることに。

バイオリン、フルート、ピアノ ・・・ 司会も
皆でプログラムし、開催された。

市の防災組織も、展示を申し出てくれた。

調布市の墨彩画家・古川ひろし先生の10年間の
神戸の復興の姿を描いたものの展示会も
同時開催できることとなった。

神戸の≪人と未来防災センター≫から、
語り部の市原さんも来てくださることになった。

皆さんで、祈る心をひとつに出来た。


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その頃、9.11もあった。中越地震も、
スマトラの津波もあった。
その後、四川や、ハイチの大地震も・・・

天災だけでなく、テロや戦争、理不尽な犯罪で
今も、命を奪われる人はあとを絶たない。

≪普通に暮らせる≫そんな幸せなことは、ないのだ。

阪神大震災は、私に沢山のことを教えてくれた。


それから 自身に大きな出来事があっても、
あのときの神戸の方たちの状況を考えたら、
乗り越えられる!と思えた。

6434名の犠牲者は、もちろん、そのご家族。
まわりの友人の哀しみは、想像を絶する。
みんな、被災者であり、哀しみにひたる時間もないまま
不自由な避難所や、仮設住宅で
生活の建て直しを長く、しなければならなかった。
仮設住宅は、今もあるのが現状だ。


自分の生まれた町、生まれた家、町並み、
幼なじみ、仕事仲間など、築き上げた人間関係を
何度も寸断された方たち。
孤独死は、平成9年から568人を数えるという。


道路や建物は、ほとんど復興した。
しかし、いまだに洗濯機の振動に、
フラッシュバックして、必ず外に出る主婦。
別れが怖くて、家族をつくらないと決めている若者。
復興住宅という人の気配を感じられない場所で、
老いや病と戦っている人たちがいる。
心の奥には、大きな闇が、未だに残る。



いま縁あって、静岡県の森町にいる。

音楽を通じて知り合ったモダンバレエの先生は
≪♪ 95,1,17 何処へ≫ を 振付けてくれた。
命の大切さを訴えるイベントの中、
1200人の前で生徒さんと踊ってくださった。

偶然にも、森中学校が、県でたった二校の
防災学習指定校に選ばれた。神戸の東灘区で被災し、
避難所として開放した中学校の元校長先生が、
講演にいらした。

私も、その一年後、生徒さんたちの前で、
ボランティア体験を話させてもらった。
娘の通う中学校でも・・・。生徒さんたちの
感想文が、本当に嬉しかった。

娘が大きくなったら必ず伝えなくては・・・と、
あの時思ったことを、同じ世代の
子供さんたちの多くに伝える
機会をいただけて、本当にありがたく思った。

静岡に着てから出会えた音楽仲間と
懐かしいフォークなどを、練習してきた。
ここ数年、ときわ屋ライブの日が、ちょうど 
1月17日あたりなので、この歌を 
歌わせてもらっている。

中日新聞に載せてもらったこと
FMハローにも呼んでもらえたことなど、
あの頃、力を合わせた愛知の友人たちや
先生たちにも伝えた。

名古屋のミラクルカフェさんたちは、
明るく楽しい癒しソングのオリジナルを
沢山、発表していた。ヒロミちゃんと
お友達になって、この唄を知ってくれたとき
彼女なりの表現で、命の唄
♪ 青空ぶらんこ を作ってくれた。


あの日を忘れない。

今ある幸せに感謝して生きる。

教訓を無駄にせず、防災の用意を怠らない。

その日は、ちゃんと祈る。
 私が決めていることです。


今年は、1月15日がときわ屋ライブとなりました。
♪ 95.1.17 何処へ を 歌わせていただけることに
感謝します。 


あの日から




2014,12 追記

10年目の祈念コンサートに神戸から西尾市まで
語り部として来てくださった、市原聡美さんは、
数年前に、使命を全うされ、天国に旅立たれました。

私は、2014,6月 より、不思議なご縁で
東日本大震災で福島原発の放射能が襲った
双葉郡浪江町の臨時職員となりました。

町民2万数千人のうち、5千人以上の方が
全国に避難されています。あれからもう3年10ヶ月・・・
浪江町では、全国10箇所に拠点を置き、
避難者の訪問活動を、現地臨時職員に託しています。

愛知、岐阜、三重、静岡、長野の五県にも
老若男女およそ200名が、いらしています。
こちらで採用されたもう一人と、ペアで、
その方たちのお宅に訪問し、あの日のこと、
あの日からのこと、あの日までのこと
語られる一つ一つに、耳を傾けています。

3年前の3.11から、何かできないかと
足踏み状態だった私。今、
その仕事にかかわれていることに、
不思議なご縁を感じています。

いつまでさせていただけるかわかりませんが、
おひとりおひとりに、寄り添うことができたらと
思う毎日です。がんばります。

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2015年1月17日、阪神大震災から20年目の日を
あの時、同時に立ち上がった方たちと祈りの一日を
過ごしたいと思っています。

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2016.1.17は、プレ葉ウオークでライブ ♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浪江町の仕事は、制度が変わり、卒業しました。

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2018年 娘は、23歳に、孫も4人になりました。 

若い時のパワーは有りませんが、

感謝しながら、これからも

自分のできることをしてゆきたいと思っています。


1/27日 に 東区フルハウスライブ
2/4 に 浜北プレ葉ウォークライブ
3/3 に 和コンサート に参加予定 ♪ 


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Posted by 森のブリコ at08:39
この記事へのコメント
おはよう御座います
静岡県には10以上の災害時のバイクボランティアがありますが
殆どのボランティアが
地震が起きたらの活動を基本に置いているので
長続きしないのが現状です。
磐田BVN・NPO日本救難バイク協会
は被害軽減の啓蒙活動も行っています。
大きな地震が来ても 被害が少なく
ケガをしなければボランティアをしなくても
ボランティアが必要のない人になるので
他にボランティアを当てる事が出来ます。
ボランティアなんかしなくて良いから
家具の転倒防止と備蓄食糧を充実させてと思う今日この頃です。
Posted by しか225しか225 at 2010年01月13日 11:00
しか225さんへ

あのときのバイクの活躍は、
すごかったと聞いています。
  
そうですね。あの日、亡くなったかたの多くが、
家具などの圧死だったとか・・・

そのうちじゃなくて、やらないと いけませんね。
ウチも、まだ、ちゃんと出来ていません。

がんばってみます。
Posted by 森のブリコ at 2010年01月13日 13:19
森のブリコさん
あの日を思い出しますね。
娘が兵庫へ嫁ぐとき
やはり脳裏に浮かんだのは
大震災でした。
先日は、長田区へ寄る
機会があり【鉄人28号】を
みてきました。
街は活気があり
元気でしたが、皆さんの心の中
までは、みることできませんでした。
ひまわりのような笑顔に
励まされますね。
ブリコさん、また歌を歌ってくださいね。語り継がれることを祈ります。
Posted by NAONAO at 2010年01月13日 22:19
NAOさんへ

  娘さんは、今、兵庫なのですね。

  長田区の鉄人28号も、
  見てみえたのですね。
 
  15年を生き抜いてきた方たちの笑顔は、
  きっとひまわりのように明るく、
  元気だったことと思います。

  その日は、しっかり祈って、私たちも
   その方たちに負けないように、
  明るく前向きに生きてゆきたいものですね。  
Posted by 森のブリコ森のブリコ at 2010年01月13日 22:32
本当に身が引き締まる、感動的な記事ですね。
記事を拝見して思わず涙ぐみながら、コメントさせて頂きます。

震災後、確か「NEWS23」だったと思いますが、特集が組まれました。
被災された方のインタビューが流れていて、オーソドックスな受け答えが続いていたその時。
「おい、○○!」
「おー!お前、生きとったんか!
☆★はどーやった!?」
「・・・さっき分かったんやけど、だめやった・・」
「くそーーーーーっ!!・・」
確か、そんなやり取りだったと思います。
被災地の、リアルな映像。
その映像は特集の一場面で、その後静かに、中島みゆきの「時代」が流れて、被災した方々の映像が流されました。

あの時自分は、何も出来なかった。
自分がとても悔しかったです。
こうして、15年経った今でも変わらぬ想いを持ち続けている。
行動を起こされた森のブリコさんを尊敬致します。
せめて1/17には、西に向かって祈りたいと思います。
Posted by ろうろう at 2010年01月14日 01:09
ろうさんへ

  コメント、感謝します。

  目をそむけたくなるような報道の連続でしたが、
  せめて、目に、心に、焼き付けておかなくてはと、
  ずっとテレビをつけっぱなしにしていました。

  一年前に、母を亡くし、その生まれかわりのように
  女の子を授かり、2ヵ月半の頃でした。
  肉親を失う悲しみ、それも前触れも無く突然に・・・
  どんな気持ちだろうと思いました。

  しかも、あの時は、瓦礫の中に、火の中に、
  家族がいても、助けられず立ち尽くす人たちも・・・

  ケガをした赤ちゃんに、包帯もミルクもオムツも無い。
  要介護者に、オムツも、お湯も、暖房もない。

  ホットカーペットの部屋で、
  テレビを見ているだけの自分。
  バランスが取れなかったですね。

  今、ハイチという国でまた大きな地震があったという
  報道がありました。天災だけでもこんなに悲惨で、
  つらいのに、人災などもってのほかですね。
  生きている間に、できることで
  助け合ってゆきたいものですね。
Posted by 森のブリコ at 2010年01月14日 07:50
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書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

プロフィール
森のブリコ
森のブリコ
≪ブリコラージュ≫この言葉に救われました。
伝えたいことは、ブリコ童話に!趣味は、音楽、笑顔流筆文字、楽描き、乗馬、日記がわりのこのブログです。ぶりこら、COCORONでは、ボーカルを担当。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やわらぎ♪ 2024.3.


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鎮魂歌  ♪ 95.1.17 何処へ
 
震災遺児支援曲1995年

阪神大震災から29年に 

あの日からのこと
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ~ ♪ 駅 ~
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やわらぎ♪ 2023.5



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

FFFライブ♪ 童 神 

COCORON

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フォークサミット№9 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪ 人生の扉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やわらぎ♪ 2021.11.27


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やわらぎ♪ 2020.11.29


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やわらぎ♪ 2020.7.12

コロナ対策万全の中で。
人前で歌うのは久しぶり
始めは声が震えて

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ~ ♪ 君の友達 ~


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~ ♪ やさしく歌って~ 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ブリコ童話より

 ♪  いきあたりバッタの唄
 
 You tube 1万回再生・感謝!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
  ♪ 夢一夜 Mashup
 You tube 再生・感謝!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



福田でモウ ♪ にて4曲
最初の曲は、コケた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浜名湖HFJにて
♪ ひとりぼっちの部屋
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

≪森の音楽会≫

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

♪ 真っ赤な太陽 
 演出:構成:衣装担当
5000回再生;感謝

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

チラシで箱を折る


9000回再生感謝
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 ブリコ童話   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆この星に生まれ、生老病死をくり返す人間、よくわからないことと 少しわかったことをブリコラージュした詩や童話、超短編などの20話☆ 
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あの日から
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